※ 球団ごとに50音順で掲載しています | ||||||||||||||||||||
※ 打者は順に 本塁打−打点−打率、投手は順に 勝−敗−S−防御率 | ||||||||||||||||||||
※ 通算成績は1999年度までです | ||||||||||||||||||||
※ 主に1980、1990年代の選手を中心に紹介しています(順次増やすつもりです) | ||||||||||||||||||||
※ 2000年問題に備えて西暦を4桁にしました(10000年問題には対応していません) |
セントラル・リーグ |
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読売ジャイアンツ | オリックスブルーウェーブ | ||||||||||||||||||||||||||||||
阪神タイガース | 福岡ダイエーホークス | ||||||||||||||||||||||||||||||
中日ドラゴンズ | 大阪近鉄バファローズ | ||||||||||||||||||||||||||||||
広島東洋カープ | 千葉ロッテマリーンズ | ||||||||||||||||||||||||||||||
横浜ベイスターズ | 西武ライオンズ | ||||||||||||||||||||||||||||||
ヤクルトスワローズ | 日本ハムファイターズ |
選手名 | 在籍年 | 通算成績 | 実績、イメージ、その他 |
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K.カムストック | 1985〜86 | 8-10-0-4.47 | 左腕不足のチーム事情の中、先発ローテとして1年目は8勝をマーク・2年目はサンチェの加入のためほとんどファーム暮らしで、1軍では3試合で0勝2敗、防御率7.84 |
B.ガリクソン | 1988〜89 | 21-14-0-3.29 | 1年目の4月だけで5勝するも体が大きかったためにバント攻撃に遭い(特に大洋戦)なかなか勝てず・4月の時点でワンちゃん曰く「30勝はいける」・息子のミドルネームは『クワタ』・ 糖尿病・大リーグに復帰し、1991年には最多勝 |
B.ガルベス | 1996〜 | 46-37-0-3.31 | 最多勝(1996)・1996年5月1日の中日戦で山崎武司と乱闘騒ぎ・1998年7月30日の阪神戦で審判に球投げる・すぐキレる・入団当初はカーブの時に舌を出すので球種バレバレ・ ミスターに「ヘイ!!ドミンゴ ドミンゴ」と声をかけられるが無視・1999年は投手として初のシーズン2本の満塁本塁打・通算でも9本塁打で、来日4年目にして早くも現役投手最多の本塁打数・ ランナーが出ると急にイライラ&ソワソワ・「オレがボス(長嶋監督)を男にする」 |
D.グラッデン | 1994 | 15-37-.267 | 危険球論争のきっかけとなった5月11日のヤクルト戦で捕手の中西と乱闘、小指を骨折して戦線離脱・日本シリーズは初戦でヒット1本打っただけだが、第2戦の1回の裏に鈴木健(西武)の エラーで出塁し、原のタイムリーで生還、先制点がそのまま決勝点・肩の弱さを理由に自由契約 |
H.クルーズ | 1983 | 4-47-.240 | シーズン中はパッとしなかったが、西武との日本シリーズ第5戦でサヨナラ3ラン本塁打・日本ハムのクルーズ(1980〜85)の実弟 |
W.クロマティ | 1984〜90 | 171-558-.321 | 首位打者(1989)・最高出塁率(1989)・最多勝利打点(1984、1986)・最多安打(1989)・MVP(1989)・ベストナイン(1986〜87、1989)・ 1987年6月11日に宮下昌己(中日)に右ストレート炸裂、1週間の出場停止と罰金30万円・1987年の日本シリーズ第6戦で、2回にブコビッチのセンターへの大飛球で 清原和博が2塁から3塁に進むが弓なりの送球のため一挙生還される・8回にも中途半端な送球で辻発彦が秋山幸二のセンター前ヒットで1塁からホームイン・若菜嘉晴(大洋)と 犬猿の仲・金石昭人(広島)の敬遠をサヨナラ2塁打・さらばサムライ野球・クライム・『とんねるずのみなさんのおかげです』でほもおだほもおの用心棒役 |
H.コトー | 1994 | 18-52-.251 | 左投手キラー・スキンヘッド・大リーグ通算130盗塁だったが、日本では2盗塁(4盗塁刺)・日本シリーズ第6戦でダメ押しの本塁打を放ち優秀選手に・助っ人としては物足りず1年で解雇 |
D.ゴンザレス | 1991〜92 | 9-27-.248 | デラクルーズに代わって7月に入団・9本塁打を打つも守備で足を引っ張る・2年目のオープン戦で見切りをつけられ、モスビーの獲得のため開幕直後にヒット1本で解雇 |
R.スミス | 1983〜84 | 45-122-.271 | 大リーグ通算314本塁打+1092打点の実績を持つスイッチヒッター・大リーグ時代は7度のオールスター出場・1年目は5番を打ち、チャンスに強い打撃で『陰のMVP』と言われた・1983年10月 11日のヤクルト戦で優勝を決定づける3ラン、2ラン、ソロを放ち6打点・出場試合数102、打数263ながら本塁打は28本・年齢的な衰え(39歳)もあり、2年目は故障がち・球場まで列車で通い、 阪神ファンとケンカ・日本に来た外国人選手たちの親分的存在・乱闘騒ぎの時にレオン(当時大洋ホエールズ)を威圧感だけで黙らせる・松山千春とのデュエットでレコード発売・2000年はシドニー五輪代表チームのコーチ |
デビット.P | 1997 | 0-0-4-6.00 | 抑えとして6月上旬に入団・4試合連続セーブをあげたが内容が毎回危なっかしく、登板7試合で見切りをつけられる |
H.デラクルーズ | 1991 | 0-0-.250 | 俊足、強肩を買われて2月に入団したが、1軍出場は5試合だけ・7月中旬に自由契約 |
J.バーフィールド | 1993 | 29-53-.215 | 三振王(1993)・変化球がまったく打てず127三振・打率最下位(1993)・肩が強く、守備では貢献度大・翌年ヤクルトに入団かと思われたが、代理人が大リーグと契約してしまい 結局お流れ |
J.パセラ | 1987 | 1軍出場なし | 3A時代にはセーブ王・クロマティ、サンチェに次ぐ第3の外国人として入団・日本では出番なし |
E.ヒルマン | 1995〜96ロッテ 1997〜98巨人 | 26-19-0-2.64 | ベストナイン(1996)・2年間で5億円ぼったくり・ミスター違和感・「肩に小錦が乗っている」・巨人で1勝もできず・「投げたくないんじゃない、 投げられないんだ」 |
P.ブラッドリー | 1991 | 21-70-.282 | 最多死球(1991)・開幕戦で初打席初本塁打・死球が多いためしばしば乱闘騒ぎ・7月11日の広島戦で9回裏に大野豊から連続セーブを14でストップさせる逆転サヨナラ本塁打を放つも インタビューを拒否・藤田監督から『修行僧』と言われるほど生真面目・生真面目すぎてチームになじめずベンチ内で孤立し、シーズン終了前に退団 |
M.ブラントリー | 1993 | 0-4-.182 | 1992年の宮崎キャンプでテストを受け、力不足で落ちた選手だったが、1993年の6月下旬に第3の外国人として入団・バーフィールドの故障で7月中旬に1軍入りしたが、 13試合で打率1割台で本塁打0・巨人のブラッドリー(1991)と間違えやすい |
ホセ.P | 1999 | 2-3-0-5.32 | 韓国野球を経由しての入団・年齢も若かったため『育てる』方針だったが、1軍投手陣が崩壊したためやむなく1軍へ・先発で何度か好投したが打たれることも多く1年で解雇・宮田征典コーチは 「ホセの解雇は納得できない」 |
マリオ.B | 1996 | 3-2-19-3.33 | 打撃不振で解雇されたマントの後を受けて入団・大リーグ経験はなかったが、ストッパーとして逆転優勝に貢献・巨人投手陣の危機を救う・1995年は台湾球界でガルベスとチームメイト |
J.マント | 1996 | 0-1-.111 | 3Aで2冠を獲った大型3塁手という触れ込みだったが、10試合に出ただけで5月1日に自由契約・オリオールズのジョンソン(元巨人)監督の押し付け・ナベツネからトンマ扱い |
J.リンド | 1972 | 9-23-.237 | ジョンソンの抜けた2塁手の後釜として4月に入団・期待されていたが、ベテランの土井正三にポジションを奪われて内野を転々・バッティングもサッパリ |
S.ルイス | 1997 | 0-14-.237 | ザル守備・全力で投げても一塁にボールが届かない・別名『台湾のイチロー』は打撃もさっぱり・1998年は台湾で二冠王(首位打者、打点王)、最多安打、ベストナイン、なぜかゴールデングラブ賞 |
呂明賜 | 1988〜91 | 18-49-.260 | ヤクルトのギブソンから初打席初本塁打・17試合で10ホーマー・2年目以降は弱点を覚えられ低迷・球団の都合に振り回され傷心の帰国・1998年時点では台湾で現役で、3番を打つ(ちなみに4番は元巨人のルイス) |
選手名 | 在籍年 | 通算成績 | 実績、イメージ、その他 |
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G.アルトマン | 1968〜74東京・ ロッテ、1975阪神 | 千葉ロッテマ リーンズ参照 |
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R.ウィッグス | 1990 | 1-4-.191 | キーオ、パリッシュに次ぐ第3の外国人として入団・パリッシュの途中帰国後は1軍でプレーするが(26試合)、三振率が高く全くダメ |
M.ウイン | 1991 | 13-44-.230 | 打率最下位(1991)・オマリーと共に入団もオマリーの陰に隠れて目立たず・5月19日の中日戦でリードされている場面で、あと単打1本でサイクルヒットという時に長打を打ってしまい、 「十分に2塁に行けたので、止まるわけにはいかなかった」と泣く泣く2塁に走る |
T.オマリー | 1991〜94阪神 1995〜96ヤクルト | 123-488-.315 | 首位打者(1993)・最多四球(1992、1994〜95)・最高出塁率(1992〜95)・MVP(1995)・ベストナイン(1995)・ ゴールデングラブ賞(1992)・日本での6年間全て打率3割・1995年はシーズン故意四球23・長打力不足を理由に阪神を解雇されるが、 翌年ヤクルトで31本塁打を放ち優勝に貢献・六甲卸しを熱唱・1994年は、脚部に不安があるため「守備に負担がかかる3塁は守りたくない」と言い、 押し出される形で1塁のディアーが右翼へ回り、亀山がベンチへ・ヤクルト時代は1塁ランナーが盗塁すると自分が敬遠されるため、野村監督に「走らせるな」 と文句を言うが、「おまえが打っても3割しか成功しないが、おまえが塁に出ればチャンスが広がるんだ」と言われて納得・帰国後はバレンタイン(元ロッテ監督)の紹介で、 米独立リーグ「ニューアーク・ベアーズ」のゼネラルマネージャー兼監督 |
R.オルセン | 1983〜84 | 6-11-1-4.19 | 最多暴投(1984)・メジャー経験はないが、投手陣が不振だったこともあって、阪神がストローターをシーズン途中に解雇して入団させた投手・先発を中心に起用され、1年目は4勝2敗1Sも 2年目は不振で2勝9敗 |
D.オルト | 1981 | 18-59-.307 | 規定打席には到達しなかったものの102試合に出場し打率3割・球団が求めたのは爆発力だったため1年で自由契約 |
S.クールボー | 1995〜96 | 24-93-.260 | 最多失策(1995)・1年目はオープン戦MVP・1年目のシーズン成績は打率2割7分8厘、22本塁打、77打点も失策が多すぎ・2年目は不振で6月中旬に自由契約・1998年は 大韓民国で活躍(打率3割1分7厘でリーグ5位、26本塁打、97打点)しチームの優勝に貢献したが、球団に無茶な条件を要求して自由契約(登録名は『クルーバー』) |
M.グリーンウェル | 1997 | 0-5-.231 | 春季キャンプでリタイヤし一時帰国・5月に復帰していきなりお立ち台・5月11日の巨人戦で自打球を当てて左足骨折・『神のお告げ』で引退・試合数わずか7・G-ショック |
D.グレン | 1995〜96 | 28-95-.252 | 大リーグ通算190本塁打・1995年5月に4試合連続勝利打点・1996年5月1日に代打満塁サヨナラ本塁打・調整面で藤田監督と衝突し2年目の開幕時はファーム・6月に解雇・阪神大震災の被災者の 為に1ホーマーにつき500ドル(約45000円)、1打点につき100ドル(約9000円)の『グレン基金』を設立 |
R.ゲイル | 1985〜86 | 18-18-0-4.42 | 最多与四球(1985)・最多被犠飛(1986)・1985年はエースとして13勝し優勝に貢献・西武との日本シリーズで2勝をあげ胴上げ投手に・1986年4月18日にゲーム最多三振5の 日本タイ記録 |
D.ゴンザレス | 1981 | 1-3-.174 | 不振のデードが7月中旬に解雇され、代わって入団・しかしほとんど戦力にならず、9試合で本塁打1、打点3の成績を残しただけ |
R.ジョーンズ | 1988 | 8-27.254 | 日本球界初の『背番号00』・バースに代わって入団したが、バッティングが粗かった・肩が弱く、試合後は投手並みにアイシング |
G.ジョンストン | 1982 | 10-37-.256 | シュアなバッティングの中距離ヒッターで足もある選手というふれ込みだったが、打率2割5分6厘、盗塁4で期待はずれに終わる |
S.ストローター | 1983 | 5-12-.276 | バース、アレンに次ぐ第3の外国人として入団したが、アレンに代わって一軍でプレー・長打力を発揮し始めたものの、投手力強化でオルセンが入団し、6月に解雇 |
R.ディアー | 1994 | 8-21-.151 | メジャー10年間で226本塁打・年俸2億7000万円・70試合で76三振の扇風機・打率1割5分1厘・亀山腐る・1塁を守った7月31日の横浜線で、ファウル飛球を追って転倒し右手親指を痛めて 帰国 |
P.デード | 1981 | 1-5-.219 | 俊足巧打の中距離ヒッターで、1番か2番を任せられるという期待だったが、その打棒は全く振るわず37試合に出場して7月中旬には解雇 |
R.バース | 1983〜88 | 202-486-.337 | 首位打者(1985〜86)・本塁打王(1985〜86)・打点王(1985〜86)・最多勝利打点(1985)・最高出塁率(1985〜86)・最多安打(1985〜86)・2年連続3冠王・ MVP(1985)・ベストナイン(1985〜87)・7試合連続本塁打の日本記録(1986)・4打数連続本塁打(1986)・4試合連続勝利打点(1985)・道頓堀にカーネルおじさん ・子どもの病気治療のため退団、帰国・スピード違反で捕まった翌日のスポーツ新聞に『球も飛ばす、車も飛バース』 |
A.パウエル | 1992〜97中日 1998阪神 | 中日ドラゴン ズ参照 |
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C.フィルダー | 1989 | 38-81-.302 | 本塁打王の声が高かったが、9月14日の巨人戦で水野雄仁から三振を喫したことに腹を立ててバットを叩きつけ、折れたグリップエンドが右手を直撃し小指骨折でタイトル逃す・阪神球団が年俸を ケチって1年限りで退団・1990年に大リーグのタイガースに復帰・1990年と1991年に本塁打王と打点王の2冠、1992年は打点王・1995年には923万7500ドルの球界最高年俸・ 1996年途中にヤンキースに移籍してワールドシリーズ優勝に貢献・その後は力の衰えを隠せず、1998年はエンゼルスにトレード、1998年途中にはさらにインディアンズにトレードされ、 打率2割3分3厘、17本塁打に終わる・1999年は古巣のブルージェイズとマイナー契約・ 契約内容は大リーグに上がれた場合でも年俸50万ドル(約5600万円)、出来高払い150万ドルという低い条件 |
C.フェルナンデス | 1965 | 1-8-.144 | オープン戦から絶不調で6月中旬に初本塁打を放ったが結局その1本だけ |
S.ラム | 1981〜82 | 4-16-.257 | 当時としては珍しかった第3の外国人・デードの退団、ゴンザレスの不振で出場機会を与えられたが、2年目は再び第3の外国人となり7試合に出場しただけ |
選手名 | 在籍年 | 通算成績 | 実績、イメージ、その他 |
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J.ウィリアムズ | 1997 | 1軍出場なし | 宣銅烈が不振の場合の保険としてマイナー契約・星野監督もヒルマン2世の期待をかけていたが、宣が好調だったこともあり出番なし・2軍では0勝7敗・一軍出場がなかったという点で ヒルマン2世? |
郭源治 | 1981〜96 | 106-106-116-3.22 | 最優秀救援(1987〜88)・最優秀防御率(1994)・MVP(1988)・被本塁打王(1985)・1988年は抑えだけで111イニングを投げ優勝に貢献・1989年 9月に日本に帰化・1991年は対大洋戦で31イニング無失点・台湾で英雄・1999年のシドニー五輪のアジア予選で韓国戦に登板し5回を2失点・全日本の松坂大輔(西武)対策として、 スライダーを投げられるという理由で台湾チームのメンバーに登録 |
B.カスティーヨ | 1987 | 1-1-0-7.84 | 郭、ゲーリーに次ぐ第3の外国人として6月に入団・9月に2試合投げただけで打ち込まれその年限り・ベンチ裏でグローブを燃やす |
W.ギャレット | 1979〜80 | 28-93-.241 | 広島で活躍したギャレット(1977〜79)の弟・兄のイメージが強く大砲として期待されたが、1年目は20本、2年目は8本とパワー不足を露呈 |
ゲーリー.R | 1986〜88 | 76-189-.283 | 三振王(1986)・1年目は三振が多かったが、翌年は『落合打法』を身につけ打率3割をクリアし、三振も半減、出場試合数87試合ながら24本塁打・兄のレーシッチは1984年に投手として 広島に在籍・ファミコンのベスプレでは『ガービー』 |
D.ジェームズ | 1994 | 8-40-.263 | 日本では3番か5番を期待されたスプレーヒッターで、狭いナゴヤ球場なら20本塁打は打てるといわれていたが、本塁打も打率もサッパリ・規定打席到達に1打席足りず |
B.ジャコビー | 1993 | 2-6-.183 | 5番を打つ3塁手として期待されていたが、開幕から1ヶ月もたたない5月初めに古傷(右ひざ)への不安+ホームシックで18試合に出ただけで退団 |
ジョージ.H | 1989 | 8-26-.294 | 本名はジョージ.ヒンショーで当初は『ヒンショー』で登録する予定だったが、「打てなかった時にスポーツ新聞に『貧ショー』と書かれるのでは?」と球団が心配し『ジョージ』で登録・しかし結局は スポーツ新聞に『傷だらけのジョージ』と書かれる・6月中旬に左手首を痛めた影響で不振に陥り登録抹消・53試合に出場しただけで活躍の場はなし |
B.ジョーンズ | 1979〜1980 | 20-75-.284 | ギャレットとのコンビが期待はずれ・1年目は16本塁打を放つも迫力不足でチームの得点力を伸ばせず・2年目は出番も激減 |
M.ステアーズ | 1993 | 6-23-.250 | ジャコビーに代わって6月中旬に入団・9月下旬のヤクルトとの天王山で2本塁打・1997年はメジャーリーグのアスレチックスで4番を打ち、野茂英雄から本塁打 |
B.ディステファーノ | 1990 | 5-14-.215 | 開幕戦で初打席初本塁打・パワフルな打撃が期待されたが、気が荒く、主役になるのはいつも乱闘シーン・成績もぱっとせず、8月上旬に解雇 |
S.デビット | 1991 | 0-0-0-9.00 | ライアル、アンダーソンに次ぐ第3の男として入団もチャンスがなく1試合に登板しただけ |
A.パウエル | 1992〜97中日 1998阪神 | 116-397-.313 | 首位打者(1994〜96)・最多安打(1996)・ベストナイン(1993〜96)・最多2塁打(1996)・ケガで戦列を離れたライアルに代わって1992年5月中旬に 入団・3年連続首位打者だが、130試合出場したのは1996年だけで、1994年は110試合、1995年は101試合しか出場しておらず、イチロー(オリックス)の 3年連続首位打者(1996年当時)と比較すると雲泥の差・1997年オフに中日を解雇されるも即阪神に入団決定・阪神でも実力を発揮できず8月中旬に解雇され、「自分が 解雇されるとは思わなかった」とほざく・結局はコールズ(1996中日、1997阪神)の二の舞 |
バンスロー | 1990 | 29-78-.313 | ベストナイン(1990)・打率4位、本塁打3位も家族の都合で1年で退団・本名はバンス.ローで、当初登録名は『ロー(Law)』の予定だったが、打てなかった時にスポーツ新聞に『低い』を意味する 『ロー(Low)』とダジャレで書かれるのでは?と球団が心配 |
R.ブライアント | 1988中日 1988〜95近鉄 | 近鉄バッファロー ズ参照 |
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フレッド.K | 1978 | 3-4-0-4.32 | 開幕直後に来日・最初は評判もパッとしなかったが、フォークボールを武器に5月にローテ入り・誰とでも親しみやすい人柄が好評・大相撲の高見山(東関親方)のいとこ |
K.モッカ | 1982〜85 | 82-268-.304 | 最多併殺打(1983)・日本野球向きのまじめな選手・最後の試合ではナインから胴上げ・帰国時にもナインが見送り・1982、1984〜85年は20以上のエラーを記録するもチームメイトの ウーやん(宇野勝)に一歩及ばず(1982年は宇野が26でモッカが24、1984年は宇野が27でモッカが26、1985年は宇野が25でモッカが24・この3年間宇野は全てリーグ最多失策を 記録・チームの失策の約半数がこの2人の失策で、まさにピッチャー冷や冷やの三遊間) |
R.モンテ | 1995 | 2-4-0-6.55 | 日本では先発中心で、11試合で2勝4敗0S・7月末に解雇・本名はリッチ.モンテレオーネ |
ローン.W | 1975〜76 | 19-68-.263 | ゴールデングラブ賞(1975)・最多3塁打(1975)・クローズドスタンスの独特の構え・1年目は16本塁打も翌年は激減・盗塁数も20から3に減少したが、盗塁死は2年連続10 |
選手名 | 在籍年 | 通算成績 | 実績、イメージ、その他 |
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T.アイルランド | 1983〜84 | 18-67-.275 | 堅実な守備とハッスルプレーが持ち味・ピッチャーゴロを打って、絶対にアウトの場面でパフォーマンスのつもりで1塁にヘッドスライディングをして左手小指骨折・1997年の ダイエーホークスの春季キャンプに臨時コーチとして走塁を指導 |
R.アレン | 1989〜91 | 45-133-.288 | 1990年に4打数連続本塁打・1991年の西武との日本シリーズで4番を打ち、2本塁打 |
A.ガードナー | 1981〜82 | 30-105-.272 | 1981年7月19日の大洋戦で本塁打を打つもホームベースを踏み忘れる・1年目は26本塁打だったが、2年目は出場チャンスも減りわずか4本塁打 |
A.ギャレット | 1977〜79 | 102-247-.260 | 三振王(1978)・2年目にカープの歴代外国人選手で初めてのシーズン40本塁打を記録・捕手としても12試合出場・中日のギャレット(1979〜80)の兄・広島からのオファー当初、 日本行きを渋っていたが弟の強い勧めで来日を決意 |
A.ソリアーノ | 1996〜98 | 0-0-.118 | カープアカデミーに入って2年目で来日・1997年に1軍に初出場を果たし、9試合で17打数2安打にもかかわらず年俸の大幅アップを要求し、ダン野村を代理人にして調停案に・結局調停案も 蹴っ飛ばし、1998年は1軍出場なし・1999年はヤンキースに行くらしい |
R.チェコ | 1992〜93、 1995〜96 | 19-9-0-3.17 | 広島が設立したドミニカ野球学校からの初の入団選手・台湾で経験を積み1995年に復帰、15勝をマーク・1995年オフに、1997年からレッドソックスでのプレーが決まったので 1996年はチンタラプレー・阪神戦で9回裏2死まで無安打だったが、久慈照嘉に打たれる |
M.デュプリー | 1980 | 10-40-.266 | 強肩外野手・左翼デュプリー、中堅山本浩二、右翼ライトルという鉄壁の外野陣・陽気な性格・チームメイトのプレーの真似 |
T.バークレオ | 1987〜90西武 1991広島 | 西武ライオ ンズ参照 |
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L.フィルキンス | 1983 | 2-7-.268 | ライトル、ガードナーに代わり、『強打者』というふれ込みで来日・日本の変化球に戸惑い、開幕直後に2軍落ち・結局39試合の出場で終わる |
M.ブラウン | 1992〜94 | 50-165-.256 | 入団1年目の4月は打率3割で打点王だったが、シーズン終わってみれば打率最下位・2年目は前田智徳、江藤智とクリーンアップを組み、チーム一の83打点を記録・3年目は捻挫の治療のために 7月中旬に帰国してそれっきり |
Z.ベルサイエス | 1972 | 4-10-.189 | 広島初のカタカナ外国人で7月に来日・「ユニフォームが20年古い」など文句は多かったが、成績は最低・48試合で4本塁打、10打点、打率1割8分9厘 |
L.メディーナ | 1993〜95 | 18-82-.262 | 三振王(1994)・1986年に1A2冠・1988年に3Aで本塁打王・来日1年目にオープン戦で打率4割5分5厘、8本塁打、21打点で3冠王も開幕3試合目に右肩を骨折して帰国で この年はそれっきり・1994年もケガで出遅れる・1995年も死球が原因でケガをし、35試合に出場しただけ |
R.ヤング | 1990 | 11-35-.234 | パワーのあるスイッチヒッターとして来日・当時不在だった4番打者の期待がかかったが、不発に終わる・1991年は台湾でプレー |
J.ライトル | 1977〜82広島 1983南海 | 166-529-.285 | 最多安打(1981)・ベストナイン(1981)・ゴールデングラブ(1978〜81)・最多犠飛(1982)・1980年日本シリーズでMVP ・強肩で勝負強い名選手 |
R.ランス | 1987〜88 | 58-133-.207 | 本塁打王(1987)・三振王(1987)・最多犠飛(1988)・山本浩二の穴を埋める長距離砲として入団・打率2割1分8厘で本塁打王・安打の4割5分が本塁打 評価の低さに失望し2年目のシーズン途中で帰国・ランスにゴン |
D.レーシッチ | 1984 | 0-1-1-3.18 | 前年までストッパーだった大野豊が先発に回ったため、抑え役として来日するも小林誠二の台頭もあって1セーブに終わる・中日のゲーリー(1986〜88)の兄 |
W.ロードン | 1989〜90 | 24-94-.289 | ゴールデングラブ賞(1989)・1年目は打率3割・その風貌から『銀行員』・1990年は打撃不振で2軍落ち |
選手名 | 在籍年 | 通算成績 | 実績、イメージ、その他 |
---|---|---|---|
J.アドゥチ | 1987大洋 | 13-48-.268 | レスカーノに代わって6月に入団・にわのまことの漫画で『仇討ち』 |
M.キャンベル | 1997 | 1軍出場なし | 2軍で3試合に登板しただけで5月下旬に右肩痛治療のため帰国でそれっきり |
L.シーツ | 1992大洋 | 26-100-.308 | 打点王(1992)・ベストナイン(1992)・長打力+確実性のあるバッティングで打点王に輝いたが、近藤明仁新監督の『守りの野球』という方針から戦力外となり1年で解雇 |
S.ジェームス | 1980大洋 | 21-57-.269 | 111試合に出場し、21本塁打、打率2割6分9厘の成績を残したが、球団が長打力を求めたためミヤーンとともに解雇・2本のランニングホームラン |
ジェリー.W | 1984西武 1985大洋 | 西武ライオ ンズ参照 |
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J.シュワーズ | 1995 | 1-1-0-4.15 | 長身からの豪快な速球と2種類のカーブで三振が取れるという触れ込みだったが、4試合に登板しただけで、6月中旬に解雇 |
D.スコット | 1994 | 0-1-0-2.51 | 若くて伸び盛りということで期待されたが、ほとんど中継ぎや抑えとしての起用で白星なし |
J.トレーシー | 1983〜84大洋 | 20-68-.301 | 1年目は打率3割3厘(11位)、19本塁打、66打点・2年目の4月14日に首脳陣と対立し、3試合に出場しただけで帰国 |
G.ブラッグス | 1993〜96 | 91-260-.300 | ベストナイン(1994)・24試合連続安打・1994年は長打率1位・1年目は29試合連続安打(球団新記録)などで途中まで首位打者だったが、ロッカーにパンチして骨折、72試合で 3割4分5厘も106試合目で打撃成績の欄から名前が消えた・死球だとすぐ乱闘・手のひらのサイズが28センチ・鼻の穴のサイズが500円玉クラス・夫人は米国ボーカルグループ 『アン・ヴォーグ』のメンバー |
B.ブレット | 1977大洋 | 0-0-0-9.00 | 開幕してすぐの入団・『弾丸投手』で話題を集めたが、先発しても即KO・結局44日で退団 |
J.ポンセ | 1986〜90大洋 | 119-389-.296 | 本塁打王(1988)・打点王(1987〜88)・最多安打(1987)・ベストナイン(1987〜88)・1990年はパチョレック、マイヤーの活躍でほとんど2軍暮らし |
マーク.B | 1982大洋 | 3-17-.208 | 強肩のスイッチヒッターだったが、バッティングの方は86試合で3本塁打、17打点、打率2割8厘と全く役に立たず |
J.マイヤー | 1990大洋 | 26-77-.275 | 守備、走塁面に不安がありシーズン終了後に退団・横綱曙のいとこ |
P.マホームズ | 1997〜98 | 3-8-0-5.34 | キャンベルに代わって1997年7月に来日・6月中に1軍登録しないと3人枠全てを使えないため、来日前に登録・3連敗のあと8月に3連勝・右ヒジ遊離軟骨除去手術のため9月に帰国・2年目は ほとんど出番なし・1998年4月29日の広島戦で、代打で出塁したマラベの代走に起用される・史上初の外国人投手の代走出場・2年目に権藤監督に「1軍に上げてくれ」とアピールするが、 「代走要員なら間に合っている」とあっさり却下・途中入団→活躍→故障で帰国→2年目はさっぱり、という意味でバークベック(1995〜96)の二の舞 |
F.ミヤーン | 1978〜80大洋 | 12-92-.306 | 首位打者(1979)・バットを短く、寝かせて持つ独特のバッティングフォーム・1979年は出場試合数がわずか98ながら首位打者を獲得・三振が少ないが打点も少ない・1978年 5月23日に横浜球場初の満塁本塁打 |
P.ラコック | 1981大洋 | 10-36-.273 | 20ホーマーは打てる力があると言われたが、半分に終わる・守備でも足を引っ張り、ナインからは総スカン |
M.ラム | 1982大洋 | 12-46-.269 | 田代富雄と3、4番を打ち、チャンスに好打を飛ばす・規定打席にも達しまずまずの成績だったが、迫力不足は否めずこの年限り |
R.レイノルズ | 1991〜92大洋 1993近鉄 | 52-196-.288 | ベストナイン(1991)・ゴールデングラブ賞(1991)・1991年に11打数連続安打・1991、1992年に2年連続の開幕日4安打を記録・ スイッチヒッターなのに左投手が打てない |
レオン.L | 1978〜82ロッテ 1983〜85大洋 1986〜87ヤクルト | 千葉ロッテマ リーンズ参照 | |
R.レスカーノ | 1987大洋 | 3-7-.217 | 開幕直前に入団・4月は好調だったが、5月、22打席無安打が続くと体力の限界を理由に引退 |
J.リナレス | 1971大洋 | 0-0-.000 | 遊撃手強化を目的にSFジャイアンツ傘下の3Aフェニックスから入団・「若いし、3番を任せられる打力もある」という評判だったが、代打で1打席に立っただけで解雇 |
D.ローマン | 1986〜87大洋 | 14-75-.291 | 1年目はシュアなバッティングで打率9位・翌年、レスカーノ入団で2軍落ちを拒否して、5月に退団 |
選手名 | 在籍年 | 通算成績 | 実績、イメージ、その他 |
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J.アイケルバーガー | 1989 | 0-3-0-7.04 | 開幕第2戦(巨人戦)でサヨナラ暴投のデビュー・わずか8試合の登板で1Sもあげることなく5月20日に解雇 |
M.エーカー | 1998〜99 | 0-2-0-2.34 | 1年目は12試合に登板、69回と3分の1を投げたが、打線の援護に恵まれず0勝2敗・防御率が良く、投球内容も良かったため残留・翌年、若松監督は抑えも期待していたが、右肩関節唇損傷で 途中帰国し退団・結局2年目は1軍登板なし |
T.オマリー | 1991〜94阪神 1995〜96ヤクルト | 阪神タイガ ース参照 |
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R.オルティス | 1997 | 0-7-.172 | 入団当初の登録名は『ルイス』だったが1ヶ月で変更・7月に自由契約 |
郭建成 | 1989〜91 | 0-4-0-5.26 | 台湾ナショナルチームのエースも日本では第3の外国人・2年間で17試合に登板して勝ち星ゼロ・12球団の外国人の中で年俸が一番(ダントツに)安かった |
B.ギブソン | 1988 | 7-11-0-4.87 | ケガで帰国したハーパーに代わって5月に来日・6月14日の巨人戦で初登板し、呂明賜に初本塁打をプレゼント・規定投球回数に達したが、防御率は悪いし7勝11敗は期待はずれ |
C.スミス | 1984〜85 | 5-18-.202 | 4番打者として期待されて入団したが、まともな戦力にならず・1年目は52試合で打率2割1分4厘、2年目は16試合で打率1割5分8厘 |
D.デシンセイ | 1988 | 19-44-.244 | 開幕戦で初打席初本塁打で、これが東京ドーム第1号本塁打・史上初の2試合連続逆転サヨナラ本塁打 |
D.デントン | 1982 | 1-20-.207 | ユマキャンプでテストを受けて入団・「足はそれほど速くないが、バッティングはいいし、守備もまずまず」という評価だったが、ほとんど活躍できず |
T.バートサス | 1991 | 3-5-0-5.61 | 球団の希望は抑え、本人の希望は先発・球威はあるが制球難・8月に解雇 |
T.ハーパー | 1988 | 2-6-.143 | 開幕直後に右ヒザを負傷し治療のために一時帰国したが、回復が遅れ結局それ以前の10試合の成績が全て |
L.ハーロー | 1982 | 4-12-.164 | 俊足巧打で一発長打もあると期待されていたが、守備で転倒してセンター前ヒットの当たりを3塁打にしたり、センターフライをポテンヒットにしたりの大チョンボ・7月20日に傷心の帰国 |
R.ハドラー | 1993 | 14-64-.300 | 打率7位も「2塁は日本人選手」という野村監督の方針により1年で解雇・翌年に野村監督「彼はムードメーカーだった」と後悔・ミミズ食う |
F.バニスター | 1990 | 3-2-0-4.04 | 4月に3勝したが、その後はさっぱりで6月に解雇 |
A.ビーン | 1985 | 2-2-0-7.25 | スミス、マルカーノに次ぐ第3の外国人として5月中旬に入団・8試合で2勝2敗だが、右肩痛の影響もあって防御率が悪く、9月中旬に解雇 |
D.ブリッグス | 1982〜83 | 18-68-.258 | 最多死球(1983)・不振のハーローに代わって1982年7月に入団・1試合に3本塁打してから一発狙いが目立ち、打てなくなった |
M.ブロハード | 1986〜87 | 23-69-.265 | 大砲としての入団も1年目は21本塁打と不本意な成績・2年目は4割近い打率で好スタートを切ったが、迫力不足で、ホーナーの入団で2軍落ちを嫌って退団 |
J.ペピトーン | 1973〜74 | 1-2.163 | ロバーツ、ロペスの不振のため現役大リーガー4番として6月19日に来日・来日してから2週間ぐらいで夫人との離婚問題で帰国・8月になってから再来日したがバッティングはサッパリ・ 8月20日に試合前の練習中、右足アキレス腱炎で戦列から離脱・そして9月12日に「アメリカで治療したい」ということで球団に無断で帰国・翌年も選手登録したが球団社長、弁護士、 日米両コミッショナーとの話し合いで、ヤクルトの自由契約で決着・とにかく問題児だった |
D.マーフィー | 1990 | 5-22-.229 | 大リーグ通算166本塁打で、守りもいいという触れ込みだったが、5月に右ヒザを故障・成績不振のため8月に解雇決定 |
C.マニエル | 1976〜78ヤクルト 1979〜80近鉄 1981ヤクルト | 189-491-.303 | 本塁打王(1979〜80)・打点王(1980)・MVP(1979)・ベストナイン(1978〜80)抜群の長打力でヤクルト、 近鉄のリーグ初優勝に貢献・広岡監督と合わず近鉄へ移籍・1979年6月9日のロッテ戦で八木沢荘六からあごに死球を 食らい重症、復帰時にフェイスガードを着用・球団も手を焼く問題児 |
B.マルカーノ | 1975〜82阪急 1983〜85ヤクルト | オリックス・ブ ルーウェーブ 参照 | |
H.ミューレン | 1994ロッテ 1995〜96ヤクルト | 77-216-.246 | 三振王(1995〜96)・最多併殺打(1996)・1994年はオープン戦15試合で5本塁打も、シーズンに入るとスライダーが打てないことが判明、三振が 多いことから八木沢監督にさっさと見切りをつけられ、4番→7番→代打→代走と降格・八木沢監督休養後に中西監督代理になってから打ち始める・1995年にヤクルトに 移ってから実力を発揮し、8番バッターとして優勝に貢献・1996年4月6日に1試合3併殺打の日本タイ記録 |
L.ムートン | 1998 | 3-12-.241 | 1995年に大リーグに昇格し、ホワイトソックスのルーキーとして球団史上4人目の3割打者・1997年はホワイトソックスで4番も打ち長打力が期待されたが、日本では30試合で3本塁打しか打てず 6月中旬に解雇 |
J.レイ | 1991〜92 | 13-64-.269 | 1年目は2割9分9厘でリーグ10位、最多2塁打・ケガが多いのが難点で、2年目は49試合に出場しただけで7月に任意引退 |
レオン.L | 1978〜82ロッテ 1983〜85大洋 1986〜87ヤクルト | 千葉ロッテマ リーンズ参照 | |
M.ロックフォード | 1990 | 0-3-0-8.61 | バニスターに代わって入団したが、先発、中継ぎ、抑えとやって0勝3敗0Sで8月に解雇 |
選手名 | 在籍年 | 通算成績 | 実績、イメージ、その他 |
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アニマル.L | 1986〜87阪急 | 7-5-24-3.00 | 1年目は19セーブをあげリーグ2位・巨漢でオーバーアクション・風雲たけし城 |
G.アマーン | 1974阪急 | 0-0-0-3.00 | リリーフ投手として期待されたが、開幕時はファーム・5月には1軍入りを果たしたが、登板は敗戦処理の1試合(3イニング)だけ・球団は育てる方針だったようだが1年でクビに |
R.アルゾーラ | 1984阪急 | 1軍出場なし | ブーマー・バンプに次ぐ第3の外国人選手として入団・ロサンゼルスで行われた阪急の入団テストで17人の中から選ばれるも一軍の壁は厚く、2軍で29試合に出場し、打率2割5厘、2本塁打、 5打点 |
B.ウィリアムス | 1975〜80阪急 | 96-294-.258 | ゴールデングラブ賞(76、78)・阪急黄金時代のメンバー・福本豊、簑田浩二との鉄壁の外野陣・俊足、巧打、強肩で阪急のパリーグ4連覇に貢献・1976年の巨人との 日本シリーズで優秀選手 |
F.キャブレラ | 1994 | 11-46-.237 | 新井宏昌打撃コーチが広角に打てる打者として判断して獲得・キャンプ、オープン戦と順調だったが、ブーマー臨時コーチのせいでリズムを崩す・結局期待はずれの内容で11本塁打に終わる |
W.ケージ | 1981〜82阪急 | 62-146-.235 | 1年目、2年目とも31本塁打を放ち落合博満(ロッテ)やソレイタ(日本ハム)と本塁打王を争ったが、チャンスに弱く大事な時にタイムリーが出なかった |
D.シュルジー | 1990〜92 | 12-11-10-3.39 | 先発、抑えとなんでもやったが、抑えでは先発陣の山沖やルーキー長谷川の勝ち星を何度も消滅させ、おかげで山沖は2桁勝利を逃し、開幕から6連敗中の長谷川は初勝利おあずけ、 そして自分はちゃっかり救援勝利・1991年5月29日の近鉄戦でDH制採用後、初の投手本塁打(打者としての通算成績は1打数1安打1打点1得点4塁打1勝利打点打率10割) |
タイゲイニー | 1993〜94 | 33-99-.270 | 長打力のある一番バッターとして活躍し、8月以降は5本の先頭打者本塁打・9月は月間MVP・2年目は右ひざの手術を受けたため十分に働けず・1998年4月28日のロッテ戦で ダイエーから移籍したばかりの藤本博史がユニホーム着用 |
D・J | 1995〜97 | 32-110-.246 | 本名はダグ.ジェニングス・日本球界初のアルファベット登録・1995年に4打数連続本塁打で7、8月の月間MVP・3年目は開幕2軍のマイナー契約・シーズン途中で解雇され週刊誌の取材で不満を ぶちまける |
K.トーベ | 1992〜93 | 20-93-.271 | 1年目はシーズン終了間際に規定打席に達して帳尻あわせの打率2位も、2年目は53打席連続無安打(野手新記録)をマークするなどでいいところなし |
T.ニール | 1995〜97、 1998〜 | 129-407-.267 | 本塁打王(1996)・打点王(1996)・ベストナイン(1995〜96)・1996年にシーズン最多サヨナラ本塁打3のパリーグ記録・1997年オフに年俸が原因で解雇されるも チーム低迷のためシーズン途中に呼び戻される・この時に年俸を大幅に下げられオリックス球団ボロ儲け・1998年8月9日のダイエー戦で1イニング2本塁打・1999年はウェスタン リーグで2度の退場処分 |
J.バラー | 1994 | 0-0-0-4.15 | 中継ぎ、抑えで17試合に登板したが0勝0敗0S |
J.ヒックス | 1985阪急 | 22-57-.207 | 若さとパワーが魅力で、1984年は3Aで37本塁打(136試合)・日本では22本塁打を放つも打率2割7厘、91三振と低調 |
ブーマー.W | 1983〜91阪急 ・オリックス 1992ダイエー | 277-901-.317 | 首位打者(1984、89)・本塁打王(1984)・打点王(1984、87、89、92)・最多勝利打点(1984)・最多安打(1984〜86、 89)・MVP(1984)・ベストナイン(1984、1986〜87、1989)・ゴールデングラブ賞(1986〜87)・ブーマーとは 「ブームを呼ぶ男」というニックネームで本名はグレゴリー.デュエイン.ウェルズ・ブルージェイズ時代はモッカ(1982〜85中日)、モスビー(1992〜 93巨人)、アップショー(1989〜90ダイエー)らがチームメイト・外国人初の3冠王・通算満塁本塁打7・シーズン満塁本塁打4・4年連続170安打 以上・土井監督と合わない・1992年度に打点王を獲った一方でリーグ最多併殺打17を記録しダイエーから解雇・打点王の年は全て最多併殺打も記録 ・身長2メートル、体重100キロ・現在は代理人でウィルソンを日本ハムに送り込む |
T.ブラウン | 1989 | 3-14-.247 | ブーマー、ホフマンに次ぐ第3の男として入団・将来の大砲として育成する方針だったが、1年で退団・1軍は31試合だけだったが、2軍で本塁打王を獲得 |
J.ボニチ | 1997〜98 | 0-0-.000 | 1997年はファーム初の3冠王も1軍では8打数無安打・1998年も10打数無安打・フレッシュオールスターに出れず帰国・結局まっすぐしか打てなかった |
B.マルカーノ | 1975〜82阪急 1983〜85ヤクルト | 232-817-.287 | 打点王(1978)・ベストナイン(1975、1977〜79)・ゴールデングラブ賞(1975〜76、1978〜79)・最高長打率(1978)・ 1981年に2塁手シーズン最多併殺113のパリーグ記録・阪急ブレーブス黄金期のメンバー・ショート大橋穣との鉄壁の二遊間・日本流のやり方に文句を 言わないマジメ外人・1985年はシーズン中に負った足の故障が原因で成績がダウンし、ヤクルトから戦力外通告・1986〜87年にはサンチェ(巨人)の 通訳として来日・1990年11月13日に肺がんのため39歳で死去 |
C.マルチネス | 1992 | 6-23-.227 | 大リーグ通算108本塁打・左手首手術のため7月中旬に帰国 |
選手名 | 在籍年 | 通算成績 | 実績、イメージ、その他 |
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W.アップショー | 1989〜90 | 39-97-.245 | 長打力はあったが、バッティングが粗く波があった・2年目のシーズン途中ファーム落ちを命じられたが、これを拒否し7月いっぱいで退団 |
E.ウィリアムス | 1991 | 5-16-.252 | 開幕から49試合に出場したが、不振で6月末に登録抹消・シーズン途中、タネル投手の入団もありそのままファーム暮らし |
J.ウィルソン | 1990 | 1-2-.059 | アップショー、バナザードに次ぐ第3の外国人として入団・6試合に出場し17打数1安打で、その1安打が2ラン本塁打・6月には解雇 |
王天上 | 1979〜80南海 | 30-70-.250 | 本名はフランク.オーテンジオ・オーテンジオの名をもじって『王天上』と登録・世界の王貞治を超えるような成績を、という期待も込められていたが、1980年の7月に退団 |
M.キーオ | 1968南海 | 17-46-.231 | 堅実な守備の一塁手としてほぼ全試合に出場・息子は阪神(1987〜90)のキーオ |
D.グッドウィン | 1986南海 | 8-26-.231 | 門田博光、デビットと共にクリーンアップを組んで期待されたが、名前のグッドウィンどおり『快勝』とはいかず、ベンチウォーマーが多かった |
B.シグペン | 1994〜95 | 3-3-20-1.94 | 1990年に57Sのシーズン最多セーブを記録した大リーグのセーブ王・1年目は33試合で12Sも2年目は木村恵二にストッパーの座を奪われ1勝1敗8Sに終わる・2年連続で防御率1点台 |
J.タイロン | 1979〜81西武 1981〜82南海 | 西武ライオ ンズ参照 |
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B.トラックスラー | 1994〜95 | 15-62-.263 | 最多併殺打(1994)・ミートのうまいスプレーヒッター・開幕戦で満塁本塁打を含む4安打、7打点・体重が公称と実際とでは大違い・愛称が『コロちゃん』・福岡ドームで右中間 真っ二つの当たりでも2塁でアウト・翌年ミッチェルの加入で開幕直前に解雇 |
R.ニコルズ | 1997 | 0-0-0-3.00 | 1軍で3試合に登板し、3イニング投げて自責点1・2軍では3勝3敗2S |
J.ネトルス | 1975南海 | 3-19-.234 | ナインに「ネトルスは寝とる」と冗談で言われたが、打撃の方も寝たままに終わってしまったようで、84試合で3本塁打、19打点 |
G.パークル | 1997 | 2-5-.213 | 小久保裕紀、吉永幸一郎に次ぐ3人目の大砲として期待されたが、わずか16試合に出場しただけ・「我慢して使っていけば、夏あたりから打ち始めたかもしれない」と監督のワンちゃん後悔 |
T.バナザード | 1988〜90南海 ・ダイエー | 67-193-.289 | 最多失策(1989)・両打のアベレージヒッター・1988年は打率4位・1989年は34本塁打・史上初の1シーズン退場処分3回・通算3度の『1試合左右打席 本塁打』・1988年に28試合連続安打(球団新記録) |
R.ハンコック | 1998 | 1軍出場なし | 打たせてとるタイプのピッチャーだったが、2軍で4試合に登板しただけで2勝1敗・7月末に右肩治療のため帰国し、そのまま退団 |
J.ピアース | 1977〜78南海 | 13-39-.227 | 1年目は13本塁打、39打点、打率2割2分7厘で2年目もオープン戦には出場・しかし前年の良くない成績と考え合わせ、シーズン直前に解雇 |
ブーマー.W | 1983〜91阪急 ・オリックス 1992ダイエー | オリックスブ ルーウェー ブ参照 |
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R.ボルトン | 1996 | 2-2-0-6.39 | 低めに球を集めるピッチングは日本向きと言われたが、11試合に登板して2勝2敗で7月16日を最後に姿を消す・1996年4月3日の初登板初先発で初回、1番井口忠仁(ダイエー)からいきなり 被本塁打 |
K.ミッチェル | 1995 | 8-28-.300 | メジャー通算220本塁打・開幕戦初打席で満塁本塁打・トラブルメーカー(無断帰国などもあって出場試合数はわずか37) |
C.メイ | 1978〜81南海 | 70-252-.309 | 最多犠飛(1979)・南海の低迷期の中心選手・入団から3年連続で3割を打ち、1978年は打率6位、1980年は打率4位・1981年は51試合に出場して5本塁打、22打点、 打率2割5分9厘に終わる |
G.ライト | 1988南海 1993ダイエー | 20-71-.247 | 強肩外野手・ポジションもライト・1988年は途中まで首位打者争いをしていたが、夏場に故障でダウンし復帰後は打率も低下・1993年に期待されてダイエーに復帰したが バッティングは小粒・1993年5月1日に左右打席本塁打 |
J.ライトル | 1977〜82広島 1983南海 | 広島東洋カ ープ参照 |
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K.ライマー | 1994〜96 | 36-149-.279 | ベストナイン(1994)・最多死球(1994)・1994年5月24日に福岡ドーム初の満塁本塁打・1996年シーズン前にライディの入団で解雇 |
M.ラガ | 1991〜92 | 35-87-.231 | 1991年は打率は2割3分6厘も32本塁打・1992年はブーマーの入団でほとんど2軍・三振するとヘルメットの上からバットで自分の頭を激しく叩く |
選手名 | 在籍年 | 通算成績 | 実績、イメージ、その他 |
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L.アキーノ | 1996 | 11-9-0-4.04 | しなやかな腕の振りが特徴の『オクトパス投法』でエースとして活躍・どこから腕が出てくるのかが打者からは見づらいタイプ・西武キラー・ノルマの8勝をクリアしボーナスを獲得・ 1年間フルに働いたが、シーズン終了後すぐにC.Dとともに解雇・耳に大きなピアス・婚約者がいるにもかかわらず、若い女性を見るとすぐアタック |
K.アボット | 1994 | 0-0-0-7.71 | 速球は140キロ、カーブも鋭いということだったが、日本では4試合で勝ち星なし |
B.オグリビー | 1987〜88 | 46-139-.306 | ブリュワーズ時代に本塁打王を獲得・日本では24本、22本と本塁打数は少なかったが、2年とも3割をクリア・球団がバース(阪神)並みの働きを要求したため解雇・アグウィリー(元大洋)と 間違えやすい |
O.カンセコ | 1991 | 1軍出場なし | ブライアント、トレーバーに次ぐ第3の存在で出番なし・7月に突然帰国 |
M.コーリー | 1984 | 3-8-.215 | 序盤戦の快進撃の立役者となったマネー、デュランが待遇面の不満で相次いで退団したため、その後を受けて6月に入団・31試合に出場してわずか3本塁打、8打点 |
J.ジムタイル | 1969 | 8-16-.256 | 1969年5月18日の阪急戦で本塁打を放ったが、1塁ベース手前で左足肉離れを起こし、代走がベース1周・65試合に出場したが守備についたのはわずか20試合で、ほとんど代打 |
L.スチーブンス | 1994〜95 | 43-136-.262 | 最多2塁打(1995)・2年目に6試合連続本塁打のパリーグ記録もチームは低迷、自身の成績も尻すぼみ |
D.デービス | 1984〜88 | 117-322-.331 | 最多勝利打点(1985)・ベストナイン(1985)・6試合連続本塁打・薬局で売ってないタイプの薬(湿布薬?)を所持し逮捕、解雇、帰国 |
R.デュラン | 1984 | 7-14-.188 | 打率は2割に満たなかったが、24試合で7本塁打を放ち、チームの開幕快進撃に大きく貢献するもマネーとともに待遇面などを不満とし5月に退団 |
テリーリー | 1983 | 10-29-.319 | 長打力を買われて入団・6月からの約1ヶ月間に10本塁打を放ち期待されたが、左ヒジを脱臼してからはパワーも消え、1軍と2軍を行ったり来たり・本名はテリー.リー |
P.ドッドソン | 1989 | 0-1-.313 | ブライアントに次ぐ存在であったが、4月にリベラが加入したため、開幕から6試合に出場しただけで2軍行き |
J.トレーバー | 1990〜91 | 53-184-.287 | 打点王(1991)・最多安打(1990)・最多併殺打(1990)・ベストナイン(1991)・ゴールデングラブ賞(1991)・ロッテの金田監督に蹴られた・住居問題でもめて退団 |
D.パウエル | 1995 | 2-7-3-3.67 | 前年の秋季キャンプでテストを受けて入団・多彩な変化球を持っており日本向きと言われていたが、5月初めに2勝目をあげて以来勝てず |
バンボ.R | 1985〜86 | 37-86-.240 | 1年目は31本塁打を放ち、デービスとともに打線の核をなすも2年目は極度の不振(6本塁打、17打点、打率2割2分8厘)で6月に退団 |
B.ビーン | 1992 | 0-2-.208 | ブライアント、リードに次ぐ第3の男として入団・2人を脅かすことができず、7試合に出場しただけで6月に退団 |
R.ブライアント | 1988中日 1988〜95近鉄 | 259-641-.261 | 本塁打王(1989、1993〜94)・打点王(1993)・三振王(1989〜90、1992〜94)・MVP(1989)・ベストナイン(1989、 1993〜94)・中日では第3の外国人扱い(ゲーリーの控え)だったが、デービスの退団に伴い入団・1989年10月12日の西武とのダブルヘッダーで 4ホーマー・1990年6月6日の日本ハム戦で東京ドームのスピーカー直撃の認定ホームラン・1993年に204三振の日本記録・1イニング2三振・ 通算8回の『1試合3本塁打』 |
マイク.E | 1983 | 1-10-.291 | ハリス、テリーリーとともに3人で1軍と2軍を行ったり来たり・53試合に出場して打率はそこそこだったがパワー不足 |
C.マニエル | 1976〜78ヤクルト 1979〜80近鉄 1981ヤクルト | ヤクルトスワローズ参照 | |
D.マネー | 1984 | 8-23-.260 | 29試合で8本塁打を打ち、本塁打王の声もかかるほどのペースだったが、『家族のホームシック』と『日生球場のトイレとロッカールームが汚い』という理由で5月10日に帰国・球団が用意した家が球場から 車で1時間半 |
B.ミラッキ | 1997 | 0-2-0-7.30 | メジャーで2度の2ケタ勝利・6月27日の西武戦で初回に10失点し、イニング最多被安打10のパリーグ記録というおまけつき・2軍では6勝2敗 |
C.ライアン | 1981 | 4-14-.239 | マニエル、アーノルドに代わる大砲として期待されたが、30試合で打率2割3分9厘、4本塁打、14打点と全く良いところがなく、6月には解雇 |
W.ライス | 1986 | 1軍出場なし | 1986年4月23日にテストを受けるために来日・5月3日に正式採用となるも野球づけの日本の練習方法になじめず、7月6日に帰国 |
J.ラフィン | 1997 | 0-0-0-5.40 | 途中入団で5月13日に先発(初登板)したが、5回を投げて3失点で即2軍落ちでそれっきり・2軍でも1試合に投げただけで2回で2失点 |
J.リス | 1978 | 6-30-.206 | オープン戦は絶好調だったが、開幕戦は腰痛で欠場・結局95試合に出場したものの本塁打6はオープン戦と同数 |
R.レイノルズ | 1991〜92大洋 93近鉄 | 横浜ベイス ターズ参照 |
選手名 | 在籍年 | 通算成績 | 実績、イメージ、その他 |
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G.アルトマン | 1968〜74東京・ ロッテ、1975阪神 | 205-656-.309 | 打点王(1968)・最多安打(1968)・ベストナイン(1968、1970〜71)・6試合連続本塁打のパリーグ記録・愛称が『足長おじさん』・ 試合中は太ももにテープ |
P.インカビリア | 1995 | 10-31-.181 | メジャーでは5年連続20本塁打以上も、日本では不振ではじめてファームを経験・1996年にフィリーズに復帰して活躍 |
S.シャーリー | 1983〜84 | 5-7-11-4.17 | ストッパーとして入団し、1年目は4勝4敗11S・翌年は先発に転向したが、この起用が裏目に出て不調を続け、1勝3敗に終わる |
ジャック・D | 1996 | 0-4-.119 | レンジャーズ時代の1990年には125試合に出場し打率3割をマーク・広角に打ち分ける打撃が持ち味ということだったが、あまりの不振で4月中にスタメン落ちし、6月3日には自由契約 |
スパイク | 1996 | 1-11-.200 | 本名はランディー.レディー・登録名の『スパイク』は勇敢を意味するニックネーム・パドレス時代の1987年に打率3割9厘をマーク・シュアな打撃を見せられず6月上旬に解雇 |
荘勝雄 | 1985〜95 | 70-83-33-4.05 | 最多敗(1989)・最多被本塁打(1988)・最多与四球(1987、1989)・最多暴投(1986)・最多失点&自責点(1988〜89)・1991年6月28日にゲーム最多 被本塁打5・入団から5年連続2桁勝利・2桁勝っても2桁負ける・通算暴投57・1991年暮れ、日本に帰化(日本名:坂元良嘉←ほとんど知られていない) |
M.ディアズ | 1989〜92 | 93-264-.281 | 1、2年目は3割30本・愛称が『ランボー』・捕手として21試合に出場、しゃがんだまま1塁に送球し、ランナーを刺す |
S.デービソン | 1998 | 0-1-0-2.35 | 4月は中継ぎのエースとして首位に立ったチームの快進撃を支えていたが、4月26日に右肩痛で戦線離脱し、そのまま帰国でそれっきり |
S.デニス | 1997〜98 | 0-3-0-5.45 | 伊良部とのトレードで入団・首脳陣は日本での大化けを期待していたが、14試合で0勝3敗と裏切られる・1998年は1軍出場なし・ロッテ球団大損 |
M.ハートリー | 1994 | 1-6-1-6.69 | カーブやSFF球などの変化球を主体とした投手で、河本とのダブルストッパーの構想だったが、14試合で1勝6敗1S・8月いっぱいで解雇・清原和博(西武)の頭部に死球 |
E.ヒルマン | 1995〜96ロッテ 1997〜98巨人 | 読売ジャイア ンツ参照 |
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M.フィアリー | 1997 | 3-4-0-5.82 | 上背があり、近藤明仁監督は抜けたヒルマンの穴を埋める活躍を期待していたが防御率悪すぎ |
D.ヘンゲル | 1990〜91 | 4-12-.183 | 第3の外国人のためほとんど出番なし(2年間で21試合)・2年目は1試合に出ただけで5月9日に解雇通告 |
マックス.V | 1992〜93 | 20-104-.270 | メジャー歴12年・ハッスルプレー・走攻守三拍子揃った選手で1年目は13盗塁・2年目はホールの影に隠れて目立たず |
B.マドロック | 1988 | 19-61-.263 | 大リーグで首位打者4度・37歳では峠を過ぎていた・95試合目で4番から降格 |
F.マニー | 1962大毎 | 0-0-*-7.36 (当時セーブ はなし) | 当初は、大毎のテスタ捕手の紹介で近鉄に入団する予定だったが、7月になって大毎に入団・本名はフランク.マンコビッチで、日本のマスコミ泣かせの名前なので登録名を 『マニー』にしたと思われる・たしかにこのままでは略すことも出来ないし、愛称もつけられない・長身からのストレートに威力があり、ドロップが得意ということだったが、 12試合に登板して勝ちも負けもなし |
H.ミューレン | 1994ロッテ 1995〜96ヤクルト | ヤクルトスワ ローズ参照 |
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D.モトリー | 1992〜93 | 7-20-.222 | ディアズ退団後に入団・1993年はファームで首位打者と打点王の2冠も第3の外国人扱いでほとんど出番なし |
J.ラフィーバー | 1973〜76 | 60-176-.263 | 現役バリバリの大リーガー・規定打席に達したのは1年目だけだったが(29本塁打、63打点、打率2割6分5厘)、大リーガーらしいプレーを随所に見せる・1975年途中でコーチになるが、 翌年に現役復帰・帰国後、1988年から大リーグの監督・息子も大リーガー |
L.リー | 1977〜87 | 283-912-.320 | 首位打者(1980)・本塁打王(1977)・打点王(1977)・最多安打(1980)・ベストナイン(1977、1980、1984〜85)・最多2塁打(1977)・最多併殺打(1986) ・10年連続3割・通算本塁打と通算打点は来日外国人選手ナンバーワン・通算最高打率(4000打数以上)を記録・「3割以上をマークする秘密は、ボール球を打つテクニックをマスターすること」 ・レオン.リーの兄・1987年に9本塁打、41打点、打率2割7分2厘と成績がガタ落ちし、解雇・弟と共に日本球界を去る |
レオン.L | 1978〜82ロッテ 1983〜85大洋 1986〜87ヤクルト | 268-884-.308 | ベストナイン(1980、1986)・最多併殺打(1978〜80、1984、1986)・1985年8月10日の広島戦でゲーム最多打点 10のセリーグ記録・1978年7月13日に1塁手のゲーム最多失策3のパリーグ記録・1979年7月13日に西武球場初の満塁本塁打・ レロン.リーの弟・1983年、前年に3冠王に輝いた落合博満をチームの顔として売り出すために大洋へトレード・1985年には3割3厘、 31本塁打、110打点の成績をあげ、大洋が「あなたの自由契約はありえない」と言っておきながら、帰国した2日後に電報で解雇通告・解雇 理由が「日本に慣れすぎている」(意味不明)、110打点(リーグ3位)をあげたのに「チャンスに弱い」、近藤貞雄監督曰く「1試合10 打点があるので110打点は大したことない」・翌年ヤクルトで活躍・1987年はホーナーの世話役・1987年の夏場に足を負傷し、 思うように成績があげられず解雇 |
J.ロザリオ | 1975ロッテ 1977クラウン | 西武ライオ ンズ参照 |
選手名 | 在籍年 | 通算成績 | 実績、イメージ、その他 |
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郭泰源 | 1985〜97 | 117-68-18-3.16 | 最高勝率(1988、1994)・MVP(91)・ベストナイン(1991)・ゴールデングラブ賞(1991〜92)・1985年6月4日の日本ハム戦でノーヒットノーラン・オリエンタル超特急 ・1991年に9連続完投勝利・1992年に3連続完封のパリーグタイ記録・外国人選手で初のFA権取得・1997年鹿取義隆と共に引退試合・台湾で英雄・現在は台湾でコーチ・渡辺久信に 選手兼コーチ要請 |
J.カラーラ | 1998 | 1-2-1-4.91 | 当初は先発として期待されていたが全く勝てず、中継ぎに回って2つのSPをあげるも防御率が悪すぎ・1998年4月7日の初登板初先発で初回、1番デューシー(日本ハム)からいきなり被本塁打・ 日本シリーズでは出番なし |
S.クーパー | 1996 | 7-27-.243 | 大リーグで4年連続100試合に出場していたバリバリの現役選手で、2年連続でオールスター戦にも出場・3塁守備で投手の足を引っ張り、「あれじゃあ鈴木健と変わらない」と伊原守備走塁コーチ嘆く・ 年俸2億5000万円も8月15日付で登録を抹消され、そのまま帰国 |
A.シアンフロッコ | 1999 | 2-5-.163 | 大リーグでは全ポジションを経験・1999年4月14日の近鉄戦で5回表にタイムリーエラーをし、松坂大輔が155球で完投するも自責点0で敗戦投手・15試合に出場して打率1割6分3厘、 2本塁打、5打点とパッとせず4月27日にファーム落ち・不調に加え、右ヒザは手術が必要なほどの状態で、6月からは2軍の練習にも不参加・6月27日に戦力外 |
ジェリー.W | 1984西武 1985大洋 | 37-113-.251 | 西武時代は『ジェリー』、大洋時代は『ホワイト』が登録名・1984年5月2日の日本ハム戦、1985年6月2日の巨人戦でサヨナラ本塁打・西武時代は27本塁打も大洋では長打力を 発揮できず |
スティーブ.O | 1980〜85 | 82-390-.312 | 最多勝利打点(1983)・最多安打(1983)・最高出塁率(1983〜84)・ベストナイン(1982〜83)・最多死球(1981)・ダンカンに代わる外国人選手としてシーズン途中で入団・ 西武の第1期黄金時代の中心打者・1982年から4年連続で3割を打ち、順位も4位、2位、3位、7位と常に首位打者争い |
J.タイロン | 1979〜81西武 1981〜82南海 | 74-200-.287 | 最多併殺打(1981)・外野手シーズン最多失策(1981)・ミューサーに代わって打線強化で1979年7月に入団・1980年は35本塁打・1981年シーズン直前に テリー入団でトレード志願・南海では3割を打って打率6位 |
T.ダンカン | 1980 | 14-36-.235 | 前期はチームトップの14本塁打を放ったが、チャンスに打てず、スティーブの入団で前期限りで解雇 |
O.デストラーデ | 1989〜92、95 | 160−389−.262 | 本塁打王(1990〜92)・打点王(1990〜91)・最多四球(1991〜92)・ベストナイン(1990〜92)・通算3度の『1試合左右打席本塁打』・ガッツポーズ・ 1991年は100四球・1989年途中から入団し、83試合で32本塁打・日本シリーズでは守備について足引っ張りまくり・1995年5月9日のオリックス戦に投手として登板 (高田誠に3塁打を打たれ、四球を2つ出してアウトを1個も取れず降板、だが竹下潤が後続を抑え失点も自責点もなし) |
J.トレンティーノ | 1993 | 1−6−.152 | デストラーデの後釜として期待されたが、開幕2戦目で本塁打を放った後はさっぱり |
T.バークレオ | 1987〜90西武 1991広島 | 55-128-.239 | 1988年にパ・リーグタイ記録のシーズン4本の満塁本塁打・1988年以外はさっぱり・山本浩二監督に期待されていたが、広島でもさっぱり・ボウクレア(元阪神 タイガース)と間違えやすい |
M.パグリアルーロ | 1994 | 7-47-.263 | 名門ヤンキースの正3塁手・大リーグ10年間に1160試合に出場し、130本塁打・西武では左手を痛め途中帰国し、日本シリーズにも代打で1試合だけ |
F.ハワード | 1974太平洋 | 0-0-.000 | 来日外国人選手史上最高のメジャー通算382本塁打を引っ下げて来日・しかし右足関節炎で1試合3打席だけで5月18日帰国 |
G.ブコビッチ | 1986〜87 | 32-113-.256 | シーズン中より日本シリーズで活躍 |
R.ブリューワ | 1994 | 8-31-.232 | 郭泰源、パグリアルーロに次ぐ第3の外国人としてシーズンイン直前に入団・左の長距離砲にしては期待はずれ |
R.ペンバートン | 1997〜98 | 6-20-.227 | 1997年シーズン途中入団・ファンに「マルちゃん」(マルティネスの愛称)と間違えられてもニコニコしているナイスガイ・1998年シーズン終盤で活躍 |
T.ミューサー | 1979 | 2-10-.196 | 新生の西武ライオンズにマルーフとともに入団・65試合に出場したが、打率が2割に届かず前期で退団 |
R.ヤング | 1991〜92 | 1-2-0-5.95 | 郭、デストラーデに次ぐ第3の外国人として入団・2年間で5試合に投げただけでほとんど2軍暮らし・1軍では1991年4月14日のダイエー戦で初登板初勝利をあげただけ |
J.ロザリオ | 1975ロッテ 1977クラウン | 5-22-.215 | ロッテ時代はあまりの不振(24試合で0本塁打、4打点、打率2割7厘)で5月には解雇。1976年には大リーグに復帰、1977年にクラウンに入団したが結果は出せないまま |
選手名 | 在籍年 | 通算成績 | 実績、イメージ、その他 |
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M.イースラー | 1988〜89 | 26-90-.302 | 5月19日に初打席初本塁打・ゴルフスウィングのようなバッティング |
M.ウインタース | 1990〜94 | 160-428-.267 | 最多四球(1993)・来日以来4年連続30本塁打以上・ダンスなどのパフォーマンス |
G.カルバー | 1975 | 1-4-0-6.50 | レイ投手に代わって1975年後期に入団・シンカーが得意な変化球投手だったが、打たれすぎた |
F.カンポス | 1994 | 1軍出場なし | 1993年の秋季キャンプでテスト入団・大沢監督からポンカス扱い |
T.クルーズ | 1980〜85 | 120-466-.310 | ベストナイン(1984)・最多2塁打(1981、1984)・最多併殺打(1982)・巨人のクルーズ(1983)の兄・三振が少ない・1984年は打率がリーグ2位 |
R.シュー | 1993〜94 | 38-124-.257 | 1年目は勝負強い打撃でウインタースとともにチームの2位浮上に貢献・2年目は開幕直前に故障が発生し、不調のままシーズンを終える |
B.スノー | 1974 | 1軍出場なし | 投手としてテストを受けて入団・モルモン教徒で「超マジメ人間」と言われていたが、初月給を手にして突然蒸発・結局、帰国していたことがわかり、5月初めに無期限の失格選手に指名された |
T.ソレイタ | 1980〜83 | 155-371-.268 | 本塁打王(1981)・打点王(1981)・最多勝利打点(1981)・ベストナイン(1982)・三振王(80)・80年に2度の『4打数連続本塁打』・1980年4月20日の南海戦(2回戦) で1試合4本塁打と同時にゲーム塁打16、ゲーム打点10も記録・1980年7月4日にゲーム最多三振5の日本タイ記録・1981年には5試合連続本塁打・本塁打を打つと翌日のスポーツ新聞に 「それ行った、ソレイタ○号」や「恐れ入った・・・」などのダジャレの見出し・枕詞がカリブの怪人・1990年2月10日に故郷でトラブルに巻き込まれ、射殺される |
B.デイエット | 1988〜91 | 21-66-.268 | 在籍した4年間はほとんど第3の外国人という評価・長打力も期待できず・ダイエットと間違えやすい |
R.デューシー | 1995〜96 | 51-120-.248 | 最多四球(1996)・1年目の開幕戦で2本塁打・2年目に初回先頭打者本塁打8の日本タイ記録もチームが優勝できずジンクスを破る・1996年5月26日にゲーム最多三振5の日本タイ記録 |
M.パターソン | 1985 | 16-44-.225 | 前年秋に自腹を切って来日した『押しかけ外国人選手』・スイングは振りが鋭く、軸がブレない打撃は評価を得たが、威力がなかった・8月6日に外野手として、ゲーム最多補殺3のパリーグ記録 |
P.パットナム | 1986〜87 | 37-121-.266 | 最多勝利打点(1986)・1年目は25本塁打、78打点、17勝利打点とチャンスに強かったが、2年目は12本塁打、43打点、3勝利打点と成績が急降下・打率も2割8分6厘から 2割4分1厘へ |
M.ブラント | 1984〜85 | 25-58-.244 | ソレイタに代わる右の大砲として入団・1年目は16本塁打も不振のため2軍落ち・2年目も第3の外国人扱いでほとんど出番なし |
T.ブリューワ | 1986〜90 | 99-302-.307 | ベストナイン(1987)・最多得点(1987)・打率3割台を3度・1990年10月14日のロッテ戦でゲーム最多併殺打3の日本タイ記録 |
B.ベイス | 1991〜92 | 16-52-.236 | 1年目は16本塁打で打率31位・翌年はマーシャルの加入で2軍スタート、1軍は40試合しか出れず |
M.マーシャル | 1992 | 9-26-.246 | 11年間の大リーグ通算成績は148本塁打530打点2割7分1厘・約2億という破格年俸・初打席初本塁打を放ち、4月は3割台をキープしていたが、あとはさっぱりで6月9日に登録抹消 |
T.マッキントッシュ | 1995 | 3-15-.220 | 勝負強い大砲として期待されたが、6月末には解雇・年俸5000万の玉拾い |
B.ミッチェル | 1976〜79 | 113-294-.250 | 4月27日に初打席初本塁打・本塁打王(1978)・三振王(1976〜79)・日本に在籍した全ての年が三振王 |
B.ムニョス | 1997 | 1軍出場なし | アメリカの大学から日本にプロ入り・「育てる外国人」のはずが1年でクビ |
B.モートン | 1970東映 | 3-5-.173 | 慢性盲腸炎が痛むと言ったり、婚約者が食中毒だと言って、よくゲームを休む・成績も最悪で、首脳陣が「今季最大の誤算」と嘆く・放った安打数が14だったが、3本塁打で5打点という効率の悪さ |
T.レイ | 1974〜75 | 5-5-0-4.09 | 投手力強化のため1974年後期に入団・初登板となった7月17日の阪急戦で1イニング3ボーク・「大味の二流投手」という評価で期待通りの働きは出来ず、1年目は3勝、2年目は2勝で75年前期で退団 |
J.レドモン | 1973日拓 | 5-24-.243 | 任意引退となったクリスチャンに代わって4月中旬に来日・初スタメンの2打席目に本塁打を放つが、その後はサッパリで73試合で5本塁打 |
G.ロックレア | 1978 | 8-38-.240 | 大砲というふれ込みで入団したが全くの期待はずれ・本塁打王のミッチェルの影に隠れて目立たず・ボウクレア(元阪神)と間違えやすい |